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| 伊藤幸男の生い立ち(1) 〜高校時代〜 |
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私は昭和22年、貧しい自営漁業の7男・9人目の末っ子として伊根で生まれました。
家業を手伝うために、定時制宮津高校伊根分校に通学しました。
2年生で生徒会副会長、3年生で生徒会長をしてきました。
当時同校にはグラウンドも体育館もなく、生徒会では「グラウンドの設置を求める運動」を取り組みました。地域にも署名運動に行き、育友会も動かし、要求運動の先頭に立ちました。そして私の在学中には着工がはじまり、卒業後、グラウンドもできました。 |
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| 「私の原点」教育は面白く |
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高校時代、私は勉強を「面白い!」と感じさせてくださる何人かの先生と出会いました。その一人は数学の教師で、町議もされた和久田幹夫先生です。単位や三角関数や微分や積分を、単なる数字・数式の当てはめではなく、いきいきと教えてくださり、自分がその"面白さ゛に目覚めたのをよく覚えています。教育にとって一番大切な"面白さ゛を伝える授業であったと思います。 教育は面白くあるべきだと考える私の、ひとつの原点といえる出会いではないかと思っています。 |
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| 「私の原点」長兄の戦争 |
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中学生の頃に、母親から長兄が太平洋戦争で「徴兵」ではなく、物のように「徴用」され、テニアン島で玉砕したことを聞かされました。後にわかったことですが、当時17〜19歳の年上の者がいたにも関わらず、長兄は当時16歳で徴用され、17歳で戦死しました。
この頃、近所のおじさんも徴兵されることになりました。私の父は背が低かったために、徴兵をまぬがれたわけですが、当時は戦争に行くことはお国のためとして名誉なこととされていましたから、自分が兵隊として失格し、隣人が合格されたことは、何事にも負けず嫌いだった父にとっては非常に悔しかったようです。
その父の不用意な言葉が隣人の逆鱗にふれてしまう事件がありました。徴兵されたその隣人に「国見ができるな」と言ってしまったのです。父にすれば本気でそう思っていたわけではないでしょうが、生きるか、死ぬか、そんななかでのその言葉は、とても隣人には許せるものではありませんでした。
しかし言ってしまったことはあまりにも不用意で、あまりにも他人事な言葉であり、当然隣人を深く傷つけ、怒らせました。経緯を知った母は悩み、隣人への申し訳なさから家の裏山にある小さな祠に、願掛けにいきました。そこで願ったことは、「息子の命と引き換えにでも、隣人を生きて返してください・・・」と。
そして皮肉にも願掛けのとおり、隣人は生還し、長兄は生きて戻ることはありませんでした。
死ぬまで兄の戦死のことを「自分が殺した」と自分を責めつづけ、そしてこの戦争を激しく憎み続けた母を私は強烈に忘れられずにいます。母は昔の人間でしたから、特に反戦思想を持っていたわけではありません。心のやさしい母でした。ただ慈しみ愛して育てた子供を奪われたひとりの母親として、当然の思いだったのでしょう。
私の母にとってあまりにも辛過ぎて、それ以降決してそのことを口にすることはなく、1995年になくなりました。そして私自身も長い間このことを家族にも言えず、母の没後5年経ってやっと、妻と娘にこのことを話すことができました。話すことがつらくても、どうしても伝えなくてはいけないことだと思えるまでには、やはり時間がかかりました。
戦争を経験した人は全て、なにかしらの罪の意識を感じるといいます。
殺してしまったという罪悪感。生き残ってしまったという罪悪感。助けられなかったという罪悪感。戦争の最も悲しい傷跡のひとつではないでしょうか。
今でも私が戦争、平和というものに敏感になっているのは、こういった私自身の「家族体験」が背景にあると思います。 |
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| 伊藤幸男の生い立ち(2) 〜関西大学生協時代〜 |
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高校卒業と同時に大阪の関西大学の生協に就職しました。一部学生だけでなく二部学生のためにも夜の10時、11時まで働きました。この頃は私も若く、そして仕事も楽しくて仕方ない時期で、このような労働条件も当然のような雰囲気でした。しかし、大変な労働条件に苦労している同僚を目の当たりにし、労働条件に徐々に疑問をもち始めるようになりました。しかし当時、関大生協に労働組合はありませんでした。改善を求めるには労働組合を結成するしかないと考えた私は、仲間とともに労働組合を結成することにし、執行委員長に就任しました。21歳の頃でした。
この頃の思い出は大変なことだけでなく、楽しい思い出もたくさんのこっています。学生にも同僚にも多くの友人を作ることができました。
また、映画サークルにも入り、友人を連れてよく見に行ったのを覚えています。多くのすばらしい作品に出会いました。中でも印象に残っているのは「人間の条件」「屋根の上のヴァイオリン弾き」「七人の侍」「ラマンチャの男」などなど、私の映画好きはこの頃にできたものだと思います。
当時、学生運動も盛んな時期で、私も政治や経済はもちろん、仕事がら経営の書物を手にするようになりました。高卒だった私はそれらの知識を殆どもっていませんでした。しかし周りの大学卒の同僚と互角に、いやそれ以上に渉りあうため、私はそれらをすべて独学で猛勉強しました。そして共同組合や消費者運動にも関心を持ち、3年後、22歳の時に購買部店長に就任しました。接客や様々な人たちと一緒に仕事をする楽しさや、人をまとめたり指導することの難しさや、経営や流通の複雑さ、面白さ、仕事の厳しさを学ぶことができました。
その頃の同僚たちとは今でも交流が続いています。11年前から「関大生協OB会・夏の集い」を企画し、当時の仲間たちに呼びかけ、丹後の加悦町を中心に毎年開催し、数十人が参加しています。今では全国に散らばり、年齢も職種も様々です。しかし皆と何年たっても変わらず、政治や経済や教育・文化、環境問題など、深い話まで語り合っています。そのような友がいるというのは、とても幸せなことであり、ヒューマン・ネットワークというのも今の私の宝なのです。 |
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| 伊藤幸男の生い立ち(3) 〜千里山生協時代〜 |
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関大生協で5年間を経て、千里ニュータウンにある千里山生協に配属となりました。大手小売との競合の中で、農産物などの産直運動を進めるなど、30年前のことですから、昨今の有機野菜ブームの走りともいえるような動向をいち早くつかんでいたと思います。(私はこの店で鶏卵部門の担当となったのですが、またこの話は別の機会で触れることにします。)私は関大生協時代以上に小売業界・流通関係の仕事にもだんだんと精通するようになりました。私にとって、これら生協での経営や流通に関する仕事に関わることができたことは、その後の議員活動にも非常に役立ち、自分の視野を広げた良い経験となったと思います。
1973年のオイルショックでは、消費者の「物不足」に応えるため大手メーカーとも渡り合い、トイレットペーパーの買い付けに四国に行くなどの経験もしました。オイルショック直前に買い付け騒ぎを予感した私は、消費者にこのことを伝えるためにビラを作成し、せまりくる危機について呼びかけました。すると直後に買い付け騒ぎが起こりました。妻には「オイルショックはあなたが引き起こしたんじゃない?」といわれるのですが・・・。
千里山生協はオイルショックの買い付け騒ぎが一番早かった店舗のうちの一つだったのです。オイルショックは大手資本の横暴を実感した出来事だったと思います。 |
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| 伊藤幸男の生い立ち(4) 〜民商時代〜 |
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結婚を期に大阪の生協を退職し、地元の与謝郡に戻り、民商事務局に勤めはじめました。民商は正式には「民主商工会」のことで、ひらたく言えば、零細自営業者をサポートする組織というところです。帳面のつけ方、決算書、申告書の書き方、税務調査に関することの相談に応じたり、共済や金融相談等を行っていました。そんな職業柄、さらに経営に詳しくなっていきました。これは、今の議員生活に非常に役立っています。そして、予算を審議しなくてはいけない議員という職業には欠かせない感覚だと思っています。
この頃、地元業者がつぶされかねない大手スーパーの進出が始まりました。地元の業者や地域経済を守るため、反対運動の先頭に立ちました。また地場産業の丹後機業危機打開のたたかいなど、当時から地元業者を守ることは地域経済を守ることだと一貫して主張してきました。長引く丹後地方の不況下で地元零細業者が汗水流して頑張っているその一方で、自民党など政治家と大企業の癒着や汚職、脱税事件が多発する中、税務署の違法な取立てを許さず、地元業者の営業と暮らしを守るため、さまざまな相談にも乗ったことを覚えています。
これらの経験は何一つ無駄にはなっておらず、今の議員である伊藤幸男を支える重要な知識や経験となっています。
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